向島 百花園
隅田川七福神の発祥の地百花園は、
文化元年(1804年)に仙台の人、
佐原鞠塢(きくう)が開いたものです。
百花園という名は、
『梅は百花のさきがけ』という意味で
酒井抱一が命名したといわれています。
鞠塢は日本橋で骨董屋として
財をなした人ですが、
晩年この地に隠退し、
多賀屋敷跡を買い求め、
かねてから親しくしていた文化人の
太田南畝(蜀山人)、亀田鵬斉、谷文晁、
大窪詩仏、加藤千蔭らから寄贈された
梅樹三百六十株を植え、梅園としました。
このために亀戸の梅屋敷に対して、
新梅屋敷と呼ばれました。
そのうちに万葉の草花なども植え、
江戸市民の絶好の行楽地となりました。
ちょうど文化・文政期(1804~30年)にあたり、
江戸町人文化の最も栄えた時代でもあって、
人々は花と親しみながら茶を喫し、
隅田川焼き(楽焼きの一種)を楽しみました。
この評判を聞き、11代将軍家斉も
この庭園を訪れています。
その後、明治時代、洪水による被害などによって
一時荒廃しましたが、
寺島村に別荘を構えていた
小倉石油社長小倉常吉氏が
園内の旧景保存に努め、
昭和13年に東京市に寄付されました。
太平洋戦争の際、大空襲のためすっかり損壊、
昭和24年に東京都の手により、
現在のように復興されました。
現在東京に残る名園といれれる公園は、
ほとんどが大名の邸などですが、
百花園ばかりは、向島の隅田川情緒を結実した、
町人文化の粋であるところに持色があります。
昭和51年(1976年)には、
国の名勝史跡に再指定されました。
蜀山人の手で「花屋敷」と書かれた
風流の門をくぐると、
四季の植物をあしらった庭のあちこちに、
亀田鵬斉の「墨沱梅荘記」の碑文をはじめ、
数多くの歌碑や句碑を見ることができます。
今も、春の七草籠の配布、夏8月の虫ききの会、
秋の月見の会など、風流な催しが行われています。
03-3619-4997
茶寮さはら
福禄寿尊
福禄寿は長頭短身の老人の姿で
知られる神様で、出身地は中国です。
福寿を司るとされる
南極星の精と考えられていました。
風俗記という古書には、こんな話があります。
中国の宋の時代、都に背が低く、
頭が長く、ひげを伸ばした老人がいて、
占いをしていたそうです。
稼いだ金で酒を飲んでは、
「我こそは寿を与える聖人なり」と
言っているのが宮中でも噂になり、
ついに皇帝がこの老人を召し出しました。
「今何歳か?」と帝が問うと、
「私は南方から来た者で、
酒に酔っていないと、うまく話せない」
との返事。
それではと酒を与えると、
「私は黄河が澄むのを度々見たことがある」と
話し出しました。
中国の大河、黄河は常に濁っており、
一千年に一度だけ澄むと伝えられています。
「これは大変な長寿の人だ」と帝が思った時、
にわかにその老人は
消えてしまったということです。