弘福寺の北隣りの寺が、長命寺です。
開山は明らかではありませんが、
元和元年(1615年)頃の
創建とも伝えられています。
もとは常泉寺と号していました。
寛永年間(1624~44年)に、
3代将軍家光が鷹狩の途中、
不意の腹痛のためこの寺に休憩した際、
境内の井戸水を汲み、薬を服用したところ、
たちどころに痛みが消え快癒しました。
喜んだ家光がその井戸に
長命水の名を与えたことから、
以後寺号を長命寺と改めたといいます。
今も残る長命水石文や洗心養神の石碑が、
それを物語っています。
境内には、他にも様々な石碑が立ち並んでいます。
江戸時代には雪見の名所であったところ方ら、
芭蕉の雪見の句碑や、十返舎一九の辞世の狂歌碑、
太田蜀山人の狂歌碑等があります。
また、江戸時代の有名な国学者、橘守部の墓、
幕府の外国奉行・会計副総裁をつとめ、
明治になってから「朝野新聞」の社長に迎えられ、
時事風刺の文を書いた成島柳北の
上半身を浮き彫りにした碑などもあります。
古くは境内に弁天堂や芭蕉堂もありましたが、
残念ながらいずれも焼失してしまいました。
門前の桜餅も有名で、
現在『山本や』が二百数十年の味を伝えています。
長命寺卍
03-3622-7771
弁財天
七福神のうち、紅一点の弁財天は、
水辺に多く祭られている神様で、
長命寺の弁財天は、
琵琶湖竹生島の弁財天の分身です。
そもそもインドの神様で、
もとは河(水)の神様でした。
日本に伝来してから、
弁舌や音楽を司る芸能の神として信仰されました。
琵琶を奏でている御姿で
描かれることの多いのはそのためです。
言葉の神ということから
文字・学問・智恵の神となり、
やがて智恵や学問は福財を
もたらしてくれるということから、
貧乏から人々を救い、
財宝を与えてくれる神としての信仰ができました。
それにともなって、
それまで「弁才天」と書かれていたのが、
いつの間にか「才」が「財」の字に
置き換えられて、
福の神の仲間入りをしたのです。
水の神様ということから、
蛇がお使いとして選ばれ、
巳の日に参拝するという風習が生まれました。